高岡古城公園樹木管理行動計画

更新日:2025年08月06日

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高岡古城公園の樹木については、密生による植生の生育不良、眺望や景観の阻害、さらには史跡の本質的価値である堀や郭(くるわ)、土塁、石垣の保存への影響やその顕在化、カラスの鳥害や園内の老木化した桜の計画的な植替えが課題となっています。

これらの状況を踏まえ、今後も歩いて楽しい、市民の憩いの場としての公園を維持しつつ、史跡の価値と魅力を高めるため、計画的な樹木管理を進めることを目的として、「高岡古城公園樹木管理行動計画」策定しました。

景観再生プロジェクトのページはこちらから

 

今年は高岡古城公園が150年を迎えます。

古城公園150年の特設ページはこちらから

住宅街に囲まれるようにお堀が設置され、紅葉した木々が公園を囲むように配置されている高岡古城公園全景の写真

今年古城公園は公園指定150周年を迎えます。詳しくはこちらから

樹木管理行動計画 実施状況

これまでの取り組み状況

高岡市では、本計画に基づきガバメントクラウドファンディングなどを活用した「景観再生プロジェクト」を立ち上げ、皆様からのご支援を募りながら令和5年度から樹木整理に取り組んでいます。

これまでの取り組み状況をご紹介します。

【本丸土橋を望む】

令和7年6月

1【 博物館側から本丸土橋を望む 】

2【 三の丸から本丸(朝陽橋)を望む 】

重機が入れる箇所はほとんどなく、支障物も多いため作業は人力で行っています。

高岡古城公園とは・・・?

前田利長が築いた高岡城~大戦を想定した最強の城~

上空からみた高岡城跡(高岡古城公園)

慶長14年(1609)、4年前に隠居していた加賀藩前田家二代当主の前田利長公は、当時関野と呼ばれていた原野に高岡城を築城しました。
この高岡城跡が現在の「高岡古城公園」になります。
利長は、武士とその家来を連れて高岡城に入城し、城下町には武家屋敷、町人地、社寺地などを配置し、町の繁栄を図りました。これが現在の高岡市中心部の起源です。

高岡御城景台之絵図(慶長17年8月写)高岡市立中央図書館蔵

高岡城は利長の隠居城として築城されましたが、実は実戦も想定した最強の城といわれています。
時代は、豊臣から徳川へ世の中が変わる変革期。また戦になるかもしれないと全国的にも築城ブームの中、利長は難攻不落の城を築きました。
高岡城最強説の理由は【馬出】にあります。(馬出:防御と反撃の両方の機能を兼ね備えた陣地のこと)
本丸を中心に、二の丸、鍛冶丸、明丸、三の丸、本丸東、小竹薮の馬出を土橋でつなげた「連続馬出」が高岡城の守りの堅さを象徴しています。

「高岡城跡は天守が無いからお城らしくないな…」と思っている方も多いかもしれませんが、
お城の真の価値は、地形を活かした郭(区画)や堀などによって、いかに攻めにくく守りやすい縄張り(設計)となっているかにあります。
高岡城ほど論理的に馬出を使いこなし、純粋に城全体の縄張りに昇華させた城は、全国でも唯一といえます。
つまり、高岡城は最高水準の縄張りで築かれた日本を代表する城です。

熱い想いで奇跡的に守られた城跡

最強と言われた高岡城ですが、幾度も危機に直面します。
入城から5年後の慶長19年(1614)に利長が死去。
翌同年20年(1615)徳川幕府の一国一城令により、わずか6年で廃城となります。
武士は金沢に、町人も高岡を離れ、町は急速にさびれてしまいました。
こうした中、家督を継いだ加賀前田家三代当主前田利常は、城下町から町人たちの転出を禁止し、塩や魚の問屋を造らせ、城跡には米蔵や塩蔵を置くなどして、高岡を城下町から商工業の町へと転換しました。
利常は、高岡城跡の土塁や堀などをそのまま保有し、いざという時の防御の拠点として守ったと考えられています。
利常の優れた手腕により、高岡に物資を集め、まちは「加賀藩の台所」と言われるほどの経済都市へと発展しました。

そして、再び危機に直面します。
明治3年(1870)に金沢藩は城跡の民間払い下げを決定。
こうした中で、当時の第十七大区長(市長に相当)服部嘉十郎ら有志が嘆願書を提出し、明治8年(1875)に「高岡公園」に指定され、城郭は消失の危機を逃れました。

さらに、高岡城跡(高岡古城公園)は、戦災を逃れ、高度経済成長期にも開発されず、幾度の危機を乗り越え、いまも、往時の姿を多くとどめました。
この結果、他の城のように堀が埋められることなく、築城時の姿が残され、当時最高水準の縄張りを体感できる公園となっています。

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