高岡山瑞龍寺
瑞龍寺の紹介
項目 | 詳細 |
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国宝昇格 | 平成9年12月3日 |
指定の範囲 | 仏殿、法堂、山門(附棟札7枚、銘札3枚、古図2点) |
重要文化財(建造物)指定 | 明治42年4月5日(昭和3年4月4日、昭和57年6月11日、平成9年12月3日一部追加) |
指定の範囲 | 総門、禅堂、大茶堂、高廊下、北回廊、南東回廊、南西回廊(附棟札1枚) |

沿革
慶長14年(1609)に、加賀前田家2代当主前田利長は、当時、関野と呼ばれていた荒野に高岡城を築き、城下町を造りました。
その際、現在の瑞龍寺の位置に富山より「法円寺」を招きました。
その後、慶長19年(1614)に前田利長が没した後、利長の法名にちなみ、「瑞龍寺」と改名されました。
3代当主前田利常は、利長の33回忌にあたる正保3年(1646)に、広大な墓所(現国指定史跡)を造営するとともに、瑞龍寺の大改造(注釈1)に着手し、代表的な禅宗建築技術である建仁寺流の技術を伝承する加賀藩御大工「山上善右衛門嘉広」を棟梁に任命しました。明和8年(1771)の「高岡町図の弁」によると、「山門」「仏殿」「法堂」などの主要伽藍は正保、明暦及び万治年間に建設され、残る「回廊」などの付属部分は、遅くとも利長の50回忌である寛文3年(1663)には完成していたものと伝えています。
その後、藩の手厚い保護により、寺観の衰えることはありませんでしたが、延享3年(1764)に「山門」北脇の「浴室」から失火し、火は瞬く間に広がり、「浴室」、「山門」、「七間浄頭(しちけんじんずう)、「禅堂」を焼き尽くしました。山門以外の伽藍の復興は、比較的早期に行われたようですが、「山門」は藩の経済力の低下もあり、なかなか進みませんでした。しかしながら、高岡町民の懇願により、文化10年(1813)ようやく再建の許可が下り、藩では創建時の大工の子孫である「山上善右衛門吉順」を棟梁に命じ、設計に着手し、文政元年(1818)11月に完成しました。
昭和・平成の大修理では、明治期に入って藩の援助停止や廃仏毀釈により寺勢が衰え、失われていた「禅堂」と「大庫裏」が復元され、一直線上に並べた主要伽藍を中軸とした左右対称の伽藍が蘇りました。
平成24年から行われた屋根替え修理では、昭和・平成の大修理で“こけら葺き”に復原された屋根が約20年経過し、傷みが激しくなっていたため、葺き替え修理を行いました。
令和2年からは設置された防災施設のうち、消火設備の埋設配管や放水銃等で不具合や不具合の兆候がみられたため、改修と強化が行われました。
(注釈1)現在、承応2年(1653)に着手した説が提唱されている。
拝観のご案内
瑞龍寺へお越しになられる方は、瑞龍寺ホームページをご確認ください。
更新日:2024年03月25日