Vol.38 「弥栄節」歴史踏まえ未来へ

更新日:2026年07月10日

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高岡鋳物発祥の地、金屋町は華やいでいました。「御印祭(ごいんさい)」の前夜祭が6月19日に開かれ、法被や浴衣に身を包んだ住民らが、「弥栄節(やがえぶし)」に併せて、踊っていたのです。「弥栄節保存会創立50周年記念誌」などをもとに、歴史も振り返りたい。

 

男踊りと女踊りがあります。法被姿の男性は竹の棒、浴衣姿の女性は手拭いを使って、「エンヤシャヤッシャイ」のかけ声に合わせて踊ります。700人ほどが参加しました。町流しは、夕暮れから夜9時ごろまで行われます。前夜祭には多く見物客がいましたが、私もその1人。石畳と千本格子(さまのこ)の古い町並みと町流しの雰囲気に酔いしれました。

 

高岡開町の祖は、加賀前田家2代当主の前田利長公です。利長公の命日は6月20日。それに併せて行われているのは、御印祭です。19日は前夜祭で、そして、20日には、有礒正八幡宮で祭典と奉納踊りが行われました。

高岡の鋳物の原点は、金屋町です。きっかけは、利長公が日本の鋳物発祥の地である河内丹南の流れを組む7人の鋳物師を呼び寄せ、住まわせたことです。高岡のまちを発展させるための産業振興策です。

 

金屋は地理的な優位性もありました。小矢部川の支流の千保川に面していることです。鋳物製造の際に、燃料となる木材の運搬が容易だったのです。

鋳物製造で最も過酷なのは、「たたら吹き」という作業です。松や杉の燃料を使って、鉄や銅を1,000度以上の高温で溶かさなければなりません。火力の熱量をあげるため、板戸を左右に離れた人が上から下に板を踏み、炉に空気を送り込まなければなりません。それが「たたら吹き」です。

踏み続ける作業は、夜8時から朝6時まで続きます。汗だくになりながらの作業です。お互いに励まし合う歌が弥栄諷(やがえふ)でした。「弥栄(やがえ)」には「ますます栄える」という意味が込められています。作業は辛いけど、地域の繁栄を願う人々の心が現れているのです。

 

歌は、近代化とともに、途絶え、忘れられました。昭和4年にそれを復活させたのは、地元の医師で、郷土史家の飛見丈繁さんです。古い音源をもとに三味線や太鼓の音曲に、手踊りをつけて弥栄節といわれるようになりました。

 

さらに、誰もが容易に歌えるようにと、作曲家の清水保雄さんが編曲しました。昭和33年です。ちょうど時代は高度成長期に入りました。それが今も続いている弥栄節です。

 

この弥栄節保存会は、金屋町のすべての世帯が入っています。弥栄節をより多くの人に知ってもらうため、小学校や中学校で、踊りや楽器の指導を行っています。

 

弥栄節は、令和4年にはサントリー地域文化賞を受賞しました。高岡の発展を支えた鋳物づくりの作業唄を時代の変化や子どもたちの要望に応じてアレンジを加えつつ住民自ら保存・継承する取り組みが高く評価された。

さらに、令和7年には、大阪・関西万博に出演しました。金屋町の皆さまの取り組みが全国的に高く評価されているのです。

 

私は、弥栄節保存会の会長の藤田益一さんの話を聞きながら、改めて心に誓いました。

「仕事は大変だが、まちの発展のために頑張ろう」。そんな先人の思いを我々は未来へとつないでいかなければなりません。

19日は町流し前に、私は、金屋本町にある鐘をつきました。その鐘は、去年8月に解体された金屋町公民館の屋上にあったもので、1984年にかつて金屋町にあった鋳物メーカー「老子製作所」(現在は戸出栄町)が制作し、寄贈されました。公民館は解体されましたが、北陸予防医学協会が駐車場の一角に再設置されました。

この鐘は寄贈当時の堀市長が高岡の発展を願い「励みの鐘」と名づけられたと言われています。町の歴史と思いが詰まった鐘を残してくださった北陸予防医学協会会長の永田義邦さんに感謝しております。

 

(参考文献)

・「弥栄節保存会創立50周年記念誌」弥栄節保存会,株式会社プリントパック,2025年発行

・日本経済新聞2026年6月11日朝刊「鋳物の熱伝える民謡「弥栄節」」