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更新日:2020年10月16日

吉久伝統的建造物群保存地区

1吉久伝統的建造物群保存地区の概要

(1)地区決定日

令和2年6月15日

(2)面積

約4.1ヘクタール

(3)範囲

高岡市吉久二丁目・三丁目の各一部

範囲図(PDF:88KB)

 

放生津往来の町並み 代表的な伝統的建造物

(4)地区の特徴

吉久は、加賀藩の年貢米を収納する『御蔵』の設置にあたり、承応4年(1655)、放生津往来沿いに吉久新村が町立てされ、もとの吉久村とともに発展した町である。それまで吉久の住民は、農業や川漁などを生活基盤としていたと考えられるが、御蔵の設置に伴い、近隣の村々より人が集められ、高岡と共に重要な米の集散地として栄え始めたとみられる。吉久御蔵は砺波・射水平野で収穫された米を伏木から北前船で大坂や江戸へ売却するための備蓄・流通拠点であり、江戸後期には加賀藩最大の御蔵となった。近世の吉久は、米などの物資の集散地であると同時に、御蔵の機能を軸として、その役目を務める人々や様々な商売に携わる人々が行き交う都市的性格をもつ在郷町であった。

明治期に入ると、明治4年(1871)の廃藩置県により吉久の御蔵も御県蔵(当時の金沢県または新川県)と改称されたが、かつての御蔵をそのまま米や魚肥の倉庫として使用し、明治維新直後は江戸時代と同様に、伏木港への最前線基地としての役割を果たしていた。しかし、明治6年(1873)に地租改正条例が発布されると、これまでのような年貢米の流通システムが崩壊し、吉久の御県蔵は明治8年(1875)10月には取り壊された。

御蔵(御県蔵)の廃止後は、吉久の有力な町民(大地主、商人)は米の流通に精通した経験を活かし、合同で米穀売買や倉庫業に進出し成功を収めた。吉久ではこうした有力な町民を「米商」・「蔵仲間」と呼び、昭和17年(1942)に食糧管理法が制定され、米穀に加え主要な食糧の生産・流通・消費全てが政府に介入されるようになるまで、米商の繁栄は続いた。

このように、吉久は、加賀藩で巨大な御蔵の設置により、特に米の流通経済の一役を担う在郷町として発展し、明治以降はそのノウハウを活かしながら、米商を営みさらに発展した町である。

保存地区は、緩やかに湾曲した放生津往来沿いに江戸後期から昭和30年代までに建てられて町家が残り、米商により繁栄した家や米作りに関わる家等が軒を連ねる。

敷地は、短冊形を基本とし、道路に面して主屋を建て、主屋背面の中庭をはさんで土蔵が建つ。

主屋は真壁造りとして、切妻造平入で桟瓦葺きを基本とする。主屋1階の平面は通り土間を設けず、敷地間口いっぱいに部屋を設けるものが多く、玄関奥の部屋を「オイ」と呼び、上部を吹抜けとするものがある。正面は、サマノコ(狭間の格子)と呼ばれる格子を設けるものが一般的であり、吉久では出格子形式で付いている。また、市内の町家にみられる格子に比べ、桟が細く間隔も細かいため繊細な印象を与えている。大屋根の出桁を登り梁で支える主屋の二階は袖壁を設け、長押、貫を化粧でみせ、白い漆喰壁と対比をなして美しく、壁面に窓を設けず「アマ」と呼ばれる収納空間として利用し、吉久特有の表構えを今日まで伝える。

2保存地区における現状変更行為について

地区内の建造物(建築物・工作物)の新築や増改築等を含む建物の外観変更、取り壊し等、これらの行為を行う場合は、市及び市教育委員会に対して許可申請が必要になります。

許可基準に基づく整備を行っていただく必要があるため、事前に生涯学習・文化財課へご相談ください。

 

許可申請が必要となる行為(例)

  • 建造物の建築、建て替え、増築、取り壊しをする場合(車庫・カーポート等も含む。)
  • 建造物の修繕等で外観や外観の色を変更する場合(瓦や建具の取り換え、外壁塗装等)
  • 屋外に設備機器を設置する場合(エアコン室外機、テレビアンテナ、外部照明等)
  • 看板等を設置する場合
  • 環境物件に特定されている樹木を伐採する場合(間伐や枝打ち等は申請不要です。)

 

許可申請の手続きの流れ(PDF:53KB)

申請書類:文化財関係申請届出様式一覧

 

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お問い合わせ

教育委員会生涯学習・文化財課

富山県高岡市広小路7-50

電話番号:0766-20-1453