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更新日:2019年6月18日

日本遺産に認定された高岡の北前船のストーリー

荒波を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~kitamaelogo

Story.1 北前船は荒波を漕ぎ進む「動く総合商社」だった!

荒れすさぶ日本海を、一枚造りの大きな帆を立てて漕ぎ進む木造の船。
北前船とは、江戸中期から明治中期(18世紀中頃~19世紀後期)まで、大阪から瀬戸内・日本海を経て北海道まで、港々で積荷を売買しながら航行した交易船です。
陸路で一度に大量の物資を運ぶことは困難だった当時、海上交通は経済の大動脈の役割を果たしていました。中でも、150t積みもの大きさがあり、日本一の米市場があった大阪と、貴重な海産物がとれる北海道を結んで日本海を往復した北前船は、花形航路でした。
江戸時代、大阪と江戸(東京)を結ぶ太平洋側の航路もありましたが、これらは大阪から江戸に大量の物資を運ぶことが目的で、寄港地も少なく、この航路を使う廻船は江戸までの片道運賃で稼いでいました。これに対し、北前船はいくつもの港に寄りながら、高く売れるものがあれば売り、安いと思う品物があれば買うという「商売」をしながら往復していました。これが北前船の特徴です。
ここ伏木の北前船船主の場合は、旧暦の2~3月に米を積んで大阪に赴いて米を売り、帰りには雑貨類を満載し、途中の寄港地で売買しつつ伏木に戻りました。次に、米や藁製品を積んで東北や北海道に赴き、帰路には昆布、魚肥、木材等を積んで旧暦9~10月にまた伏木へ戻ってきたのです。
1往復で、6千万円から1億円とも言われるほどの利益を生み出していた北前船。当時の人々にとってはリアル「宝船」だったのでしょう。
また、商品だけでなく離れた土地の最新情報や文化も、船乗りたちによってもたらされました。リスクを背負いつつ、遠距離を自由自在に移動し、その土地のニーズを拾い上げて商売につなげ、時にメディアの役割も果たす北前船は、「動く総合商社」でもありました。
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Story.2 北前船が寄りたくなる港、高岡・伏木 ─加賀藩の物流拠点─

北前船の航路ができたのは18世紀中ごろのことです。じつはそれ以前から、北海道と関西を結ぶ航路はありました。関西の琵琶湖周辺の商人が、共同で船を持ち、北海道と敦賀(琵琶湖から最も近い日本海側の港)とを結ぶ船を走らせて、商売をしていたのです。北海道から敦賀までは船、敦賀から琵琶湖までは陸路、そこから先はまた船で、北海道のものを大阪へ運び、莫大な利益を上げていました。その後、幕府の命令で、敦賀から陸路を使わず、ぐるっと本州の西半分を回って大阪までつながる航路が整備されます。これで、大阪と北海道をすべて船でつなぐ「北前船」の航路が完成し、ますます北海道との交易が盛んになっていきました。

一方、ここ高岡市伏木は、北前船が出現した頃すでに、物流の一大拠点となっていました。小矢部川と千保川という大きな川の河口に位置するため、流域から多くの産物が集まってきたのです。中でも、重要な産物だった年貢米は、伏木の対岸の吉久というまちへいったん集められ、吉久から伏木港へ、そして大阪・江戸へ出荷されていました。吉久の町なみには今も昔の面影が残っています。物が集まり、にぎやかな伏木の町は、北前船が寄りたくなるような港でした。寄港する北前船が増加するにつれ、廻船問屋だけでなく、船宿、商店、倉庫業の店なども集まり、伏木の町はどんどん発展していきました。やがて伏木でも自ら船を持ち、廻船問屋として力を持つ商人が増えてきます。最盛期には、大小合わせて30軒ほどの廻船問屋があり、栄えました。

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Story.3 北前船が運んだもの-米の道・昆布の道-

北前船が運ぶ物資は多岐にわたりました。主要な積荷は日本海側の各藩の年貢米です。大阪には日本一の米市場がありました。日本海側の大名は大阪に年貢米を運び、そこで米を売って、お金を得ていたのです。また、高岡ならではの商品としては鋳物類が数多く出荷されました。鍋や農具、大ヒット商品となった塩釜やニシン釜などの鉄製品、そして香炉や花瓶、仏具といった銅製品も出荷されていたと商品目録に記されています。

大阪に着いた北前船は木綿や繊維製品を買い込みました。帰路の途中、西日本のいろいろな港に寄って、塩や鉄、紙、船を安定させるための重石も兼ねた御影石、人形、お菓子なども買いました。人の生活に不可欠な必需品からぜいたく品まで、安く手に入る土地で買い付けては、次に寄港するときに高く売り、北前船は利益を稼いでいたのです。

北海道へ向かうときは、米のほかに藁も積み込みました。北海道は寒いので、当時の技術では稲は育ちませんでした。伏木では二束三文の稲束ですら、北海道では貴重な商品だったのです。

北海道からの帰りには鰊や昆布を買いました。中でも鰊は最大の利益を生み出しました。北海道の海を覆いつくすほど大量に獲れた鰊は、燃料の魚油として使われたり、富山で米を育てるための肥料として利用されたのです。北海道でとれた昆布が、伏木港で大量に荷下ろしされ、富山の昆布食文化を生み出したことも、北前船のもたらした豊かな恵みです。昆布で巻いた蒲鉾や昆布〆、おにぎりのとろろ昆布巻きまで、地元で昆布がとれないにも関わらず消費日本一を守り続ける富山の昆布食文化の背景には、北前船の存在があったのです。

さらにその伝統を踏まえ、最近では、高岡市内の飲食店が「高岡昆布飯」や「高岡昆布スイーツ」という、新しいご当地グルメも売り出しています。

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Story.4 今に受け継ぐ企業家魂-地域経済に尽くした北前船主たち

海運で地域に多大な富をもたらした北前船ですが、19世紀後期になると急速に終焉を迎えます。鉄道や蒸気船(汽船)など、近代的な交通機関が登場したためです。そして、電報など通信技術の進歩の影響で、これまでなら荷主と船乗りが独占していた情報が簡単に現地に伝わってしまうようになり、価格格差から生まれる儲けが小さくなってしまいました。また、北海道で鰊の漁獲量が減少するとともに、人造肥料が作られるようになって、鰊肥の需要が激減したことも原因の一つです。これまでとはまったく違った社会の仕組みが出来上がりつつあった明治後半(19世紀末~20世紀初頭)、北前船の船主たちは時代の変化にどう対応するか、試されました。

伏木では、肥料等を扱う会社や、紡績会社、電力会社、銀行立など、多くの船主がその財力を基盤に実業家に転身し、地元経済の発展に貢献しました。中でも伏木港の近代化のために尽くしたのが、廻船問屋・能登屋の長男として生まれた藤井能三でした。藤井能三は、1875年、三菱と交渉し、汽船の定期航路誘致に成功します。また、日本海側で最初の西洋式灯台や、日本で最初の私設測候所(現・伏木気象資料館)をはじめ、港の修築、道路の整備など数々の公益事業を行いました。経済恐慌のあおりで、自身の起こした海運会社が破綻してしまうものも、藤井能三は私財をなげうって、引き続き伏木築港事業に専心。その甲斐あって伏木港は1899年に全世界と貿易ができる港「開港場」に指定され、富山で最も整備の進んだ近代港として発展を遂げました。

北前船の時代は終わりましたが、荒れ狂う日本海での航行を乗り切った海の男たちの気風は、時代の荒波に揺られながら広い世界に向けて舵を取る、高岡の企業家たちの心に、今も受け継がれています。

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