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更新日:2019年4月1日

山町筋の歴史

利長の隠居城と城下町

高岡の町が開かれたのは、慶長14年(1609)加賀前田家2代当主前田利長が、高岡に隠居城と城下町を建造したときのことです。

利長は、現在の市街地中心部の南北に延びる小高い丘の上に城と武家屋敷を置き、その西側の段丘の下部を約75m四方の碁盤の目のように町割し、近隣の城下町から町人を招いて商人町を造りました。
この商人町が山町の始まりです。

城下町から商工業のまちへ

利長が高岡で亡くなり(1614)、その翌年の元和元年に発せられた「一国一城令」によって高岡城は廃城となり武士団は金沢へひきあげてしまいますが、3代当主利常は高岡町人の他所転出を禁じ、町人の自治組織である「町年寄」を発足させるなど、高岡を城下町から商工業のまちへと生まれ変わらせる政策を進めました。
明暦3年(1657)には、魚問屋と塩問屋が創設され、高岡城跡には藩に納められる御詰米と御詰塩のための御蔵が置かれました。利常の没後もこの政策は受け継がれて、寛文年間(1661~1672)には、この御蔵が吉久、立野、戸出などにも置かれるようになり、また給人米(家臣らの給料となる米)を納める多くの蔵宿や批屋(へぎや)があって米場が形成されました。このころ、締綿(精製綿)市場が開かれ、さらに文政7年(1824)には加賀・能登・越中の綿を取引する商人が高岡に集中し、高岡の経済の発展に大きく貢献しました。
明治期に入って自由な商業活動ができるようになると、高岡米商会所、綿取引を行う「寛文社」(寛文社の名は締綿市場が寛文年間に開かれたことから命名された)、肥料を扱う「豊饒社」などが開業し、高岡の経済はますます発展しました。
このように高岡は、近世から近代を通して米や綿などの集散地となり、越中における商業の中心地として反映を極めました。なかでも山町は、商都高岡の繁栄を支えてきた商人町です。

十か町と「高岡御車山」

山町は、当時の大動脈であった旧北陸道に沿う十か町で構成され、国の重要有形・無形民俗文化財「高岡御車山」を所有・継承することから「山町」と呼ばれています。

「高岡御車山祭」は毎年5月1日に行われ、重厚かつ華麗な土蔵造りの町並みを舞台に、絢爛豪華に飾られた御車山が曳き回されます。

高岡大火と土蔵造りの町並み

土蔵造りの町家が造られたのは、市街地の約6割を焼き尽くした明治33年(1900)6月27日の高岡の大火の跡のことです。

大火の前年に施行された「建物制限規則(富山県令第51号)には、繁華街での建物の新築の際は防火構造のもとすることが義務付けられたため、山町筋の復興にあたっては当時の防火建築物である土蔵造りが建てられました。

土蔵造り建造物は、防火に主眼を置いた明治中期の都市計画の記念碑といえます。

土蔵造りの建物と町並みの魅力

山町筋の土蔵造りは、二階建、切妻造、平入、瓦葺の町家で、黒瓦葺きの屋根と大きな装飾した鋳物の鉄柱、隣地境のレンガの防火壁など、華麗な装飾の中に洋風の意匠を取り入れていることなどが外観の特徴となっています。
内部は、外観の重厚さとは対照的に、繊細な数奇屋風の仕上げとし、柱に四方柾の檜、天井には屋久杉などの銘木をふんだんに使い、贅を凝らしています。主屋と土蔵の間にある中庭は建物と見事に調和し、市街地にあって緑の多い静謐な空間を作り出しています。
このように、土蔵造りのひとつひとつが伝統的建造物として見事であるばかりでなく、それらが軒を連ねる景観は高岡商人の中心地として繁栄したこの地区ならではのもの。また、町並みのなかに建つレンガ造りの銀行や洋風のファザードを持つ町家などが町並みに変化を与え、特色ある歴史的景観をよく伝えています。

お問い合わせ

教育委員会文化財保護活用課

富山県高岡市広小路7-50

電話番号:0766-20-1453