| タカ・ジアスターゼやアドレナリンの誕生
先祖代々続いた医者の家系で育った譲吉は、長崎や京都、大阪で勉学に励みました。しかし譲吉の関心は西洋の理化学(物理学、化学の総称)に傾き、これを生涯の仕事にしようと、新しい明治政府が作った工部大学校(後の東京大学工学部)へと進み、優秀な成績で卒業しました。
その後、イギリスへ国費留学したり、日本政府の事務官として渡米し万国博覧会[ばんこくはくらんかい]を視察したりするなど国際感覚も身に付けていきました。
帰国してからは、日本で初めて人造肥料を生産する会社を設立し、その傍ら麦の麹[こうじ]を使用した高峰式醸造法[たかみねしきじょうぞうほう](発酵を利用して酒類・しょうゆなどをつくる方法)の研究・開発も行いました。
数年後、アメリカのウイスキー・トラスト会社からの要請で渡米し、高峰式醸造法を活用したウイスキー製造を成功させ業績を上げるとともに、その製造過程でできる小麦の皮から発生させた「麹かび」を研究し、強力消化酵素『タカ・ジアスターゼ』を発明しました。この消化剤の効き目は世界中の人を驚かせ、現在も胃腸薬として多くの人に恩恵を与え続けています。
また、その後「ホルモン」の解明に取り組んだ譲吉は、牛の副腎[ふくじん]からホルモンを分離し、結晶化することに成功しました。世界初の結晶化ホルモン『アドレナリン』の誕生です。このアドレナリンは手術の際の止血剤[しけつざい]や強心剤[きょうしんざい]として利用され、患者の生存率を大幅に向上させ、医学界に多大な貢献を果たし、後年にはノーベル賞級の発明と絶賛されました。 |
 |
| 国際親善に尽くした晩年
化学者として目覚ましい業績を上げる一方で、親密な日米関係を願った譲吉は、ニューヨークに日本倶楽部[くらぶ](現在の日本クラブ)を創設し、日米間の親善に尽くしました。また、日本人の心の象徴ともいえる美しい桜を日本からワシントン市に寄贈する際の仲介をしたほか、自らもニューヨーク市へ桜を寄贈しました。 |
 |
| 生まれ故郷 高岡への提案
譲吉は、高岡に対して次のような提案もしています。
「急流河川の多い富山県は、電源開発に最適の地である。発電所を造って、この電気を高岡や伏木方面に送り、アルミニウムを製造したらどうだろうか。そうすれば、伝統的な鋳物[いもの]の技術も生きるはずである」(1918年(大正7年)5月、「高岡新報」より要約)
彼の示唆[しさ]は、その後生かされ、高岡市はわが国のアルミニウム産業の一大中心地となりました。 |
 |
| 無冠の大使 高峰譲吉[たかみね じょうきち]
高峰譲吉[たかみね じょうきち]博士は、偉大な化学者であり、発明・発見を製品化した事業家でもありました。また日本を愛し、アメリカを愛し、事業で得た利益の多くを日米親善のために役立てた「無冠の大使」ともいえるスケールの大きな人物でした。
日米両国の友好を願い彼は、ニューヨークのウッドローン墓地に静かに眠っています。
現在、御馬出町[おんまだしまち]の生家跡は高峰[たかみね]公園として親しまれており、1955年(昭和30年)に生誕100年を記念し建立された博士の胸像が今も私たちを見守っています。 |